『好き』の呪縛、何かを愛することができれば。

「好きなものはなんですか?」

 

「何が好きなの?」

 

「好きな食べ物は?」

 

「スポーツは?」

 

「映画は?」

 

「音楽は?」etc…

 

 

よく聞く言葉だ。色々な場面で聞かれるし、逆に誰かに聞いたこともあるだろう。だから、誰でも一度は自分の好きなものについて考えたことがあるのではないかと思う。

 

言うまでもないが、好きという感情は大切にした方が良いものだ。好きなものを食べていたり、好きな音楽をきいていたり、好きなものに関わっている瞬間は言うまでもなく楽しい。好きなことをしている時は時間を忘れて没頭できるし、いつまでもやっていたくなる。「好き」という感情は本当にかけがけのないものだ。

 

 

このようなピュアな「好き」は確かに素晴らしい。でも人は時に、「好き」を勘違いしてしまうことがあるような気がする。そして勘違いした「好き」は自身を苦しめる。

 

どういうことか?説明しようと思う。

 

今日、僕は本を読んでいた。たが、いまひとつ集中できない。あまり面白くない。読む気が出ない。でも、自分は本が「好き」だから読もうと思って、なんとか読んでいた。読んでいたら面白くなってくる、今は集中できていないだけだ。だからとにかく読み進めよう、こう思っていた。

が、結果的に面白くはならなかった。そして結局、読むのをやめた。

なぜこうなったのかというと、答えはシンプル。別に読みたくなかったからだ。でも僕は自分は本が読みたいはずだ。と思い込もうとしていた。自分は読書が好きだ、と。

多分、以前の僕は本当に読書が好きだったのだと思う。だがいつの間にかさして好きではなくなっていた。でも、僕は本を読むことは好きでなくなっても、「本を読んでいる自分」は好きだった。

 

これは似てるようで全然違う。僕は純粋に本が読みたいわけではなく、本を読んでいる自分に酔いたいだけだったのだ。これでは何も残らない。何も楽しくないし、ワクワクできない。

 

これは他のことにも当てはまる。好きなはずなことができなくなったときは、好きの対象が「そのもの自体」から「それをやっている自分」に変わった時だと思う。

 

感情はずっとそのままなわけじゃない。感情はアップデートされていく。ずっとその瞬間の感情にしがみついているのは違う。好きだったものが好きじゃなくなる。好きの対象が変わる。好きの度合いが変わる。それは何も悪いことではない。仕方がないことだ。

 

でも、潜在的に好きという感情、愛情は持っていたいと思っているのだと思う。何かを、常に愛したいと、そう願っているのだと思う。何か、どこか、誰か、自分の拠り所が欲しい。だから何かを愛したい。自分にはこれがある。そう思える何かを渇望しているのではないかなと思う。だから感情がアップデートされ、好きではなくなっても好きだと思い込みたいのだろう。何かを愛せている自分でいたいのだ。

 

 

自分の全てを注げる存在。自分の奥の方にある、持て余してるものをぶつけられる存在が欲しい。

 

 

 

 


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