美しい退屈

なくなっていたはずの自意識が、いつの間にか戻ってきて、それを合図に目が開く。朝だ。僕は枕元においていたスマートフォンを無造作に手に取り、ラインを開く。特に誰からも、メッセージは来ていない。スマホを置いて天井を見上げる。今日もまた、退屈な一日が始まる。今の時間は午前十一時。深夜一時に寝るとして、今から十四時間。どうやって時間を潰そう。

とりあえず階段を降りて、リビングのドアを開ける。中には誰もいない。当たり前だ。僕の家は母子家庭。母は休日にも関わらず、朝早くから家を出てスーパーで働いている。と、そんなありもしないモノローグを、頭の中で流してみる。実際は五人家族だし、母さんは働いていない。今家に誰もいないのは、ただの偶然だ。でも、誰もいないのは運がよかった。誰もいない家は好きだ。家だけじゃない。僕は、いつもは人で溢れかえっている場所に、誰もいなくなった瞬間が好きだ。放課後の教室、真夜中の京都駅、試合後のグラウンド。誰もいないことが想像力を掻き立てる。じーっと見ていると、少しずつ空間がぼやけて、何かを映し出されるのではないか、そんな気がしてくる。でも家の場合、そんな気はしない。ただ一人で家を自由に使えて嬉しい、それだけのことだ。

キッチンの方へ行くと、いつも通り卵とハムが置いてあった。それらで作るオムレツ、それにバナナと牛乳。これが僕の、何の変哲も無いありふれた朝食だ。面白くない。たまには変化が欲しいところだ。料理の練習でもするか?いや、でもやっぱり面倒くさい。何かしたいけど何もしたくない。料理だけに限らず、ここ数年ずっとそんな感じだ。ギターを買ってみては、特に練習しないまま埃を被り、毎日何かブログでも書いてみようと思っては、一日で挫折する。別に何かがやりたいわけじゃない。ただ、ただ何もやっていない自分が不安なだけなのだ。何にもできない自分には存在価値がないような気がして来て、消えてしまいたくなる。

でもそんな黒い気持ちを吹き飛ばしてくれる魔法みたいな瞬間が、人生にはある。夕暮れ時に食べた、イチゴ味のポッキーの甘さ、自転車で風に吹かれながら聴いたあの曲。そして、ふと見上げた空に浮かんでいた月の美しさ。幸せは突然現れて僕の心を暖めてくれる。

歯を磨きながら、僕はぼんやりと外を眺める。ベビーカーを押しながら歩くお母さんと、その周りを飛び跳ねる女の子。もうすぐ十二時になる。あの親子は今からお昼ご飯でも食べに行くのだろうか。ふとこちらを向いた女の子の表情は、嘘偽りのない満面の笑みだった。

今日もまた、退屈な一日が始まる。

柔らかくて、繊細なもの。

言いたいことがあるようで言いたいことなんて何もない。ずっと何か表現したい、表現したい、って思い続けて、その思いの端くれみたいなもので、この記事もなんとか書こうとしているけど、結局伝えたい何か、って言うものが見つからなくて、こんな何が言いたいのかよく分からない駄文になる。ずっと自分の中には燻り続けてるものがあるけどそれが何かわからない。世の中に溢れてるいろんな言葉の中から、それっぽい言葉を選んで切り貼りして、それっぽい文章を作り上げることはもしかしたら簡単なのかもしれない。でもそれが本当に自分が思っているものかと言えば、そこにはやっぱり疑問符が付く。自分が本当に言いたいことはもっともっと自分の深ーいところにある。それはすごく柔らかくて、繊細で、乱暴に触れば破れちゃいそうなもの。それが自分の一番本当の部分。見栄とかプライドとかそういう無駄な装飾品を全部取り払って丸裸になった時にあるもの。それをうまく表現できるようにしたい。それができたら、もしかしたら死んでもいいのかもしれない。そういうことがもしできたら、静謐に、安らかな笑顔で、死ぬことができるんだろうなと思う。いつかそんな日が来たらいいな。

この世界はサッカーだけで出来てる訳じゃない。

最近、ボールにさわっていない。あんなに毎日ボールを蹴って、サッカーのことだけ考えて、行動規準が全部、「これをやればサッカーがうまくなるか」だった頃が嘘みたいだ。あの頃はボールをさわっていなかったら落ち着かなかったし、毎日3時間は最低でも練習しないとダメだと思ってた。そうじゃないとうまくなることなんて絶対できないって。

毎日持ち歩いていたボールも、もう持ってあるかなくなった。あんなにどこに行くにも一緒だったのに、ないことに慣れてしまえば、もうそれが当たり前みたいだ。

僕はずっとプロサッカー選手になることを夢に5年間ボールを蹴り続けた。でもいつしかその目標は、少しずつ、少しずつ薄れていき、いつの間にか最初から存在しなかったかのように消えてしまった。まるで雪が溶けていくみたいだった。降って降って、降り積もった雪も時間がたてば消えてなくなる。ぼくの夢がなくなっていくのはごく自然なことだった。

あの頃の僕は、夢がないやつはダメだと思っていた。努力できないやつはクソだと思っていた。でも今は、そういうことを言うやつを見たら、こいつ終わってるなって思う。何か1つが正しくて、これは絶対間違ってるなんて言えることなんて、世界にはほとんどない。絶対ないとは言い切れないけど。

プロサッカー選手になれる人はものすごく少ないと言われている。だから諦めろって。お前には無理だって。でも思う。本当に無理だと思ったらそもそもなりたい気持ちなんてとうに消えてる。まだなりたいって純粋に思えてる間は全然チャンスがある。諦める必要なんて少しもない。チャレンジすべきだ。そうじゃないと一生そのやり残した気持ちは、自分の中でくすぶり続ける。それじゃその気持ちは報われない。一つ一つの思いを浄化していかないと、次には進めない。

でも、だからと言って、サッカーに囚われすぎるべきじゃあない。この世の中はサッカーで出来てるなんてそんなことは絶対にないから。サッカーじゃない他のものに目がいったとき、そんな他のことしてたらうまくなれないと思って我慢して、ストイックにサッカーだけに打ち込み続けることを悪いとは言わない。実際それが自分のためになることだってあるだろうし。でもサッカー以外の何かに目がいったと言うことは、自分の興味がそこにあることは間違いないわけだし、それをやってみるということも全然悪いことではない。繰り返すけど、世界はサッカーだけで出来てるわけじゃないし、人生はサッカーだけじゃないから。あくまでもサッカーは人生を楽しむ手段の1つ。サッカーが唯一絶対の答えではない。

そして、もし、サッカーが好きだ、プロになりたいと思って練習していて、あまりにも楽しめないのなら、それはサッカーが好きだと思い込んでいるだけなのかもしれない。好きだという気持ちは、別に不動なものじゃないし、一度好きになったものを一生ずっと好きなままでいられることの方が珍しいくらいだ。感情は常にアップデートされていくし、いつかの瞬間に抱いた感情を、ずっと持ち続けるなんて、しなくていい。自分の気持ちなんて少しずつ、時には大きく、どんどん変化していく。そしてその変化の中で、すごく美しい感情と出会う瞬間がある。それはあまりにも鮮烈な出会いだから、出会ったあともその余韻は残り続ける。そしてそれが消えていってしまった後も。そういった気持ちは、いつか消えていってしまうからこそ美しい。だからその瞬間出会えた気持ちに、ずっとしがみついているのは、あんまりかっこいいことじゃない。その感情は胸に秘めて、また歩き出せばいい。そうしても別に、その感情が自分の中になかったことになるわけではない。そういう奇跡みたいな感情は、過ぎ去ってもずっと胸に残り続ける。いつかそれは自分を暖めてくれるものになる。だから大丈夫。また1歩ずつ、1歩ずつ歩みを重ねていこう。

 


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落ちてく太陽、下る僕。

弱めの風。日が沈みかかっている。ここは標高何メートルなんだろう。多分そんなに高くはない。四キロメートルくらいだろうか。いや、そんなに高くないのかな。山には詳しくないからちょっと分からない。登るのに思ったより時間がかかったからけっこう高い山なのかもしれない。

今日、山を登ろうと思ったのは、特にたいした理由なんてなくて、何か無性に動きたくなったから。たまにそういう瞬間はある。叫びたいような、動きたいような、暴れたいような。そんなどうしようもない衝動に突き動かされて、突然頭に浮かんだことをなんの意味もなくやってみたくなる。無駄なことがしたくなる。今日はテスト前日だけど、勉強なんかしたくなかった。机に向かってみても、ペンを動かすことなんて1つもできない。だから横に目をやって、目に入った漫画を手に取り、現実とは違う世界へ逃亡する。漫画の中の主人公に自分を投影する。平凡きわまりない自分が、その瞬間だけは世界で、唯一無二のものすごいやつになったような気分になれる。いつもは言えないことだって、できないことだって、飄々とした顔で、何でもやってのけられる気がするんだ。でも最後のページをめぐり、本を閉じると、また机の上の数学の問題が目に飛び込んでくる。そうするとダメだ。一瞬で現実に押し戻される。さっきまで怖いもの知らずだった自分が嘘みたいに、いつもの脆弱な自分に戻る。

そんなことで部屋にいても何も始まらないから、とりあえず僕は、自転車の鍵を手に取り、ドアを開けて外に出る。そしてサドルに股がりペダルを踏む。今日のペダルは、いつもより少しだけ重かった。

そして何も考えず、真っ直ぐに道を進んだ。しばらくすると、1つ目の交差点に来て決断を迫られた。右か、左か?

そして僕は右に曲がった。単純に右側の道の方が景色がいいからだ。そしてまたペダルを踏む。

どちらへ進むかは決めたものの、まだどこへ向かうかは決まっていない。さあどうする。

そこで頭に浮かんで、いってみようかと思ったのがこの山だ。子供の頃に何度か行ったきり、5年ほど来ていなかった山。

案外来てみると悪くない。最近の運動不足の解消にもなったし、山頂から見る景色は思いの外絶景だった。オレンジがかった空が美しい。僕もあんな風に美しくなれたら。そんなことを思いながら、僕は太陽が落ちる前に、山を下ろうと、一歩を踏み出した。

 


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自己満

最近ずっといきがった記事を書こうと悪戦苦闘していた。が、その実、はてなブログを開けることすらできなかった。やっぱ調子にのってじぶんができること以上のことをやろうとしてもダメだ。いや、できること以上のことはしないといけない。問題は自分じゃない何かになろうとすることだ。常に本物を見られるようになりたい。自分の中の偽物も、外にある偽物も、全部無視だ。大切なのは本物。本物を感じ取れる柔らかい心を持ち続けられるようにしたい。今日の記事は超短い。でもそれくらいでいい。楽しみながらできる範囲で投稿していければ何よりいいんじゃないかなーなんて思う。

でもこれもただの自己満足か。こんなんで誰かに見てほしいなんて笑わせる。過信してる。何がしたいんだか。

夜風に吹かれて

自転車で走る夜風。風が吹き抜ける。露出した肌に冷たくさわる。前が見えずどこに進めばいいのかも、そもそも進むべきなのかさえ、何もわからない。一寸先は闇かもしれない。不安で胸が張り裂けそうだ。でもそれでもただ進む。止まってしまえば、不安に追い付かれてしまう気がして。不安を、悲しさを、嫉妬を、出来る限りそこに置いていけるように。だから強く、もっと強くペダルを踏む。そうする以外に、生きる術を知らないから。

『好き』の呪縛、何かを愛することができれば。

「好きなものはなんですか?」

 

「何が好きなの?」

 

「好きな食べ物は?」

 

「スポーツは?」

 

「映画は?」

 

「音楽は?」etc…

 

 

よく聞く言葉だ。色々な場面で聞かれるし、逆に誰かに聞いたこともあるだろう。だから、誰でも一度は自分の好きなものについて考えたことがあるのではないかと思う。

 

言うまでもないが、好きという感情は大切にした方が良いものだ。好きなものを食べていたり、好きな音楽をきいていたり、好きなものに関わっている瞬間は言うまでもなく楽しい。好きなことをしている時は時間を忘れて没頭できるし、いつまでもやっていたくなる。「好き」という感情は本当にかけがけのないものだ。

 

 

このようなピュアな「好き」は確かに素晴らしい。でも人は時に、「好き」を勘違いしてしまうことがあるような気がする。そして勘違いした「好き」は自身を苦しめる。

 

どういうことか?説明しようと思う。

 

今日、僕は本を読んでいた。たが、いまひとつ集中できない。あまり面白くない。読む気が出ない。でも、自分は本が「好き」だから読もうと思って、なんとか読んでいた。読んでいたら面白くなってくる、今は集中できていないだけだ。だからとにかく読み進めよう、こう思っていた。

が、結果的に面白くはならなかった。そして結局、読むのをやめた。

なぜこうなったのかというと、答えはシンプル。別に読みたくなかったからだ。でも僕は自分は本が読みたいはずだ。と思い込もうとしていた。自分は読書が好きだ、と。

多分、以前の僕は本当に読書が好きだったのだと思う。だがいつの間にかさして好きではなくなっていた。でも、僕は本を読むことは好きでなくなっても、「本を読んでいる自分」は好きだった。

 

これは似てるようで全然違う。僕は純粋に本が読みたいわけではなく、本を読んでいる自分に酔いたいだけだったのだ。これでは何も残らない。何も楽しくないし、ワクワクできない。

 

これは他のことにも当てはまる。好きなはずなことができなくなったときは、好きの対象が「そのもの自体」から「それをやっている自分」に変わった時だと思う。

 

感情はずっとそのままなわけじゃない。感情はアップデートされていく。ずっとその瞬間の感情にしがみついているのは違う。好きだったものが好きじゃなくなる。好きの対象が変わる。好きの度合いが変わる。それは何も悪いことではない。仕方がないことだ。

 

でも、潜在的に好きという感情、愛情は持っていたいと思っているのだと思う。何かを、常に愛したいと、そう願っているのだと思う。何か、どこか、誰か、自分の拠り所が欲しい。だから何かを愛したい。自分にはこれがある。そう思える何かを渇望しているのではないかなと思う。だから感情がアップデートされ、好きではなくなっても好きだと思い込みたいのだろう。何かを愛せている自分でいたいのだ。

 

 

自分の全てを注げる存在。自分の奥の方にある、持て余してるものをぶつけられる存在が欲しい。

 

 

 

 


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